2006年度 研究プロジェクトの目的と成果
人間進化学|心理言語科学|統合言語科学|計算言語科学|認知発達臨床科学
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人間進化学部門
動物音声科学:社会的信号としての音声
長谷川寿一
高橋麻理子(PD)、角(本田)恵理(PD)
プロジェクトの目的
音声を発する動物は、ヒトを含め多くの分類群に存在する。本プロジェクトは、脊椎動物から無脊椎動物まで幅広い分類群を対象として、動物の音声が伝える情報、多種共存機構の中で果たす役割を調べ、音声コミュニケーションを行う動物に共通してかかる選択圧を整理し、音声信号の進化を考察することを目的とする。
2006年度の成果
(1) アジアゾウの超低周波音コミュニケーション: 勝浦ゾウの楽園 (千葉県勝浦市) のアジアゾウ2頭を対象として、精密騒音計 (RION NL-31) をマイクとし、音響分析ソフトAvisoft-SASLab ProのReal Time Spectrograph機能を用いて低周波音の発音をモニターしながら行動観察を行った。
(2) キジ科鳥類の音声の進化: 昨年度の研究で、インドクジャクのメスが配偶者選択に利用していると考えられるオスの求愛音声は、飾り羽など他の求愛形質と比較して進化史の上で新しい形質である可能性が示唆された。近縁種が利用する音声のユニバーサリティとバリエーションが網羅的に明らかになれば、本種の求愛音声の進化の軌跡を系統的に再構築することができる。そこで2006年度は、本種と特に近縁な5属7種の飼育個体を対象に、定期的な音声の終日録音と行動観察を行った。年度内に9ヶ月分の調査 (全13ヶ月) を終え、全ての種で求愛あるいは警戒に関わると考えられる音声の録音に成功している。成果の一部は第6回日本進化学会、第24回日本行動学会、第7回構造色シンポジウムにおいて発表し、関連論文2報が受理された。
(3) コオロギの歌の進化に及ぼすメスの選好性の影響: コオロギの歌は種特異的であり、交配前隔離に重要な役割を果たすと考えられる。本研究では、コオロギの歌 (calling song、courtship song) に対するメスの反応を日本産エンマコオロギ属3種 (エゾエンマコオロギ、エンマコオロギ、タイワンエンマコオロギ) を対象として調べた。その結果、分岐が古いと考えられているエゾエンマのメスにおいてのみ近縁他種であるエンマやタイワンエンマのcourtship songに強くひきつけられることが明らかになった。エゾエンマとエンマの分布は一部重複するが、エンマのメスはエゾエンマのオスの歌にはひきつけられない。このような場合、エゾエンマ側が一方的にコストを被ると考えられ、2種の共存域の個体群ではエゾエンマのメスの聴覚特性およびオスの歌の急速な進化の可能性が示唆される。成果の一部は、The 9th Western Pacific Acoustics Conference、第54回日本生態学会において発表した。
パーソナリティ・意思決定スタイルに関する神経行動内分泌学的研究
長谷川寿一
高橋泰城 (PD)、坂口菊恵 (院生)、池田功毅 (院生)、沖真利子 (院生)
プロジェクトの目的
パーソナリティや意思決定の個人差に関する神経内分泌基盤の解明は、生物学的にも臨床精神医学的にも重要であるが未解明の点が多いため、パーソナリティ・意思決定と性ホルモン (おもにテストステロンやエストラジオール)・ストレスホルモン (コルチゾール・アミラーゼ) との関連を調べることを目的とした。とくに進化的観点からは、生存率や繁殖率に関係する意思決定 (報酬の異時点間配分など)・繁殖戦略の神経内分泌基盤が重要であるため、(1) 経済学的意思決定課題 (高橋・池田) や、(2) 繁殖戦略に関するパーソナリティ尺度 (Sociosexualityなど、また臨床的に重要な抑うつ傾向・タイプA性格特性など) とホルモンとの関連を調べた (坂口・沖)。また、(3) (社会性の進化を考える上でも重要な)「社会的評定に伴うエラー認知神経活動の変化」を脳波によってとらえると同時にストレスホルモンの変化も測定した (池田・高橋)。ホルモン測定には、おもに唾液サンプルを利用し、非侵襲的な研究を目的としたこと、また質量分析計を用いた厳密な定量を行なったことも特色である。
2006年度の成果
(1) 唾液中テストステロン・アミラーゼは衝動的意思決定 (直近の小さな報酬を好む傾向) と負の関係があることが初めて見出された。これは、テストステロンが脳内で女性ホルモンに変換されて衝動性を抑制している可能性や、覚醒水準の低下が衝動性と関係している可能性を示唆する。
(2) 性ホルモンと繁殖戦略との関連について、性周期と季節によるホルモン濃度の変動を明確にして検討した。また、男性ホルモン・ストレスホルモンと抑うつ・タイプA性格特性との関連も検討した。
(3) 社会的評定によって、自分の行動のエラー認知関連の脳波成分 (ERN) が上昇し、またストレスホルモン (アミラーゼ) も上昇することが見出された。評定がおこなわれることによって、以上の2つの異なる生理学的反応が喚起されることを示したのは本研究が初めてである。
以上の関連論文 (合計19報) は2006年度に国際査読誌に掲載 (または予定) されている。
覚醒チンパンジーを対象とした事象関連電位計測
長谷川寿一
上野有理 (PD)、松田剛 (PD ~9月)、大塚明香 (PD)
プロジェクトの目的
ヒトでみられるさまざまな社会的認知能力は、ヒトの進化を解く鍵として注目されている。その発達や進化を探るため、これまでチンパンジーとの比較行動研究がすすめられてきた。本プロジェクトでは、行動の基盤となる脳活動についても種間比較をおこなうため、覚醒チンパンジーを対象とした事象関連電位 (ERP) 計測を実施する。これまでにも麻酔下のチンパンジーを対象としたERP研究は僅かながら存在したが、麻酔下と覚醒時では脳活動が異なる可能性があるため、覚醒時の計測は種間比較において必要不可欠といえる。本プロジェクトで得られる成果から、ヒトでみられる社会的認知能力の進化的基盤に関する包括的な理解が期待される。
2006年度の成果
覚醒チンパンジー1個体 (9歳、メス) を対象に、様々な聴覚刺激に対するERP計測をおこなった。測定箇所は国際10/20法におけるFz、Cz、C3、C4、Pzの5ヵ所とした。覚醒チンパンジーを対象としたERP計測はこれまでに例がないため、まずは基本的な聴覚反応を確認することを目的とし、純音を用いたオッドボール課題をおこなった。その結果、チンパンジーにおいてもヒトと同様に、標準刺激と標的刺激にたいする脳反応が異なることが確認された。さらに社会的認知にかかわる脳活動を探るため、被験体の名前や同種個体の発声を刺激としたERP計測をおこなった。被験体の名前と複数他個体の名前を提示すると、被験体の名前に対してのみ他と異なる脳反応が検出されるなど、社会的刺激を用いた課題についても有意義な結果が得られた。得られた結果は英語論文にまとめ、現在投稿中である。
ヒトとチンパンジーにおける食行動の比較認知発達研究
長谷川寿一
上野有理 (PD)
プロジェクトの目的
食行動は、種を超えて普遍的にみられる、生存上必須の基本的行為だ。しかしそのパタンは動物種によって異なる。ヒトの食行動は、生後直後からの長きにわたり、母親をはじめとする他者とのかかわりを前提とする点で特徴的だ。こうした特徴は、ヒトに顕著な発達早期の離乳を支えるものとして必須であり、進化的にも、ヒトの食事場面には、子どもの社会的認知発達を支える基盤があるといえる。本プロジェクトは、これらの点に注目し、食事場面で発揮される社会的認知の発達について、進化の視点から検討することを目的とする。
2006年度の成果
食事場面でみられる母子間交渉の発達について、ヒトとチンパンジーで種間比較をおこなった。すでに蓄積したチンパンジーでの資料と直接比較するために、チンパンジーにたいして用いたのと同じ手法を用いて、ヒトに対する縦断的観察をおこなった。具体的には、ヒト母子にたいして食物や非食物を提示し、それらにたいする子どもの反応や母子間の交渉を観察した。観察は子どもが5ヶ月齢の時期から開始し、月に1度、継続しておこなった。子どもの行動の発達的推移を種間で比較したところ、離乳食開始直後の早い時期から種差がみとめられ、それらは母親の交渉パタンの違いを反映したものと考えられた。またヒトの子どもにおいては、5ヶ月齢の時点ですでに、食物・非食物にたいする行動の分化がみられた。得られた結果については論文投稿準備をすすめるとともに、当COE主催の「進化認知科学連続セミナー2006」第6回講義で紹介し、教育活動に利用した。
自閉症児の顔認知に関する実験心理学的研究
長谷川寿一
菊池由葵子 (院生)、明地洋典 (院生)、前田真紀子 (学部生)、千住淳 (科学技術振興機構)
プロジェクトの目的
自閉症は、対人相互反応における障害、コミュニケーションにおける障害、反復的・常同的な行動や興味のパタン、によって特徴づけられる発達障害である (DSM-IV; APA, 1994)。しかし、これらの障害の認知的・神経科学的基盤については依然として不明な部分も多い。そこで本プロジェクトでは、特に自閉症児の社会性の障害と強い関連が示唆される、視線認知、顔・表情認知に焦点をあて、実験心理学的な手法を用いて自閉症に関する基礎研究を進めている。自閉症児の基礎的な認知基盤を明らかにし、自閉症独特と言われる社会性の障害や発達についての知見を深めることが目的である。
2006年度の成果
武蔵野東学園の協力のもと、小・中学生の自閉症児および定型発達児を対象とした認知実験を実施した。実施場所は東京大学駒場キャンパス、実施期間は2006年8~9月であった。アイコンタクト検出機能に関する課題、他者の顔に対する注意の程度を見る課題、表情認知における視線方向の影響を検討する課題、あくびの伝播に関する課題などを実施し、様々な視点・手法から自閉症理解をめざした。その結果、自閉症児は統制群 (非言語性IQを統制した定型発達児群) とは異なる独特の反応パタンを示すことが明らかになった。得られた知見の一部は、2007年3月に行われた発達心理学会第18回大会で発表をした。また、参加家族のうち希望者には個々人の結果をフィードバックするなど意見交換も行った。今後は認知実験に加えて神経科学的実験についても実施を検討している。正しい自閉症理解や本人・家族への早期介入のため、今後も効果的な基礎データを提供していくことが課題である。
食行動に関する文化性と自然性
船曳建夫
プロジェクトの目的
品川区西五反田のNPO法人による幼保園 (幼稚園・保育園) を中心として他の2つの幼稚園と保育園において、園児の食行動について明らかにし、そのデータから人間の食行動における自然性と文化性の関係を解明する。
(1) 園児たちが、新たな食物を食べる時に、獲得される文化的行動のプロセスを、園児の観察とおよび、保育士、親とのインタビューによって明らかにする。
(2) 上記のプロセスのなかで、特に「離乳」の時期に注目し、食べられないものとは何か、それを克服するとは何かを考察する。
(3) 園児たちの文化・社会的環境としての幼保園の「食」についてのイデオロギー、特に保育士や親の「嫌いな食べ物」、「食べず嫌い」と言った価値観について明らかにし、そうしたイデオロギーが園児に対して持つ力を検証する。
(4) こうした日本の離乳の方法を他の民族・社会と比較することで、上記の3点における日本の特質を明らかにする。
2006年度の成果
(1) プロジェクト開始時よりの活動として、品川区西五反田のNPO法人による幼保園 (幼稚園・保育園) で、0歳児より5歳児の食行動の観察を続け資料を収集し、分析を続けている。また、 2006年2月に、大阪吹田市、国立民族学博物館設置のHRAF (Human Relations Area Files)から得た、離乳に関するデータの検討、考察を行った。同じく、2007年2月に同博物館にて同資料の追加調査を行った。
(2) 上記2つの活動から、次のことが分かった。(a) 伝統的社会では、離乳の開始時は、いわゆる先進社会の「6ヶ月時」といった時期よりは大幅に遅く、3、4歳と記述されているケースも少なくないことが確証された。そこから、自然と文化への移行のさまざまな様態が見て取れる。(b) しかし、それだけでなく、すでに伝統的社会においても、離乳は、親子関係のあり方、夫婦関係のあり方に大きく作用されることが分かった。「離乳」とは栄養学的な「母乳からの離脱」であるだけでなく、社会的な「母の乳房からの別れ」をも意味する。その2つの「離乳」が同時に起きることに、自然性と文化性の両面がみられる、と気づいた。
先端的な形態学的手法にもとづいた人類の起源と進化に関する研究
諏訪元
プロジェクトの目的
本プロジェクトは人類の初源期から現代人の出現にいたる各進化段階における形態進化様式を可能なかぎり明らかにすることを目的としている。特に研究の中核となっているのは、1990年代に国際共同研究の一環として収集されたエチオピア産の人類化石群であり、これらは570万年前のアルディピテクス・カダバ、440万年前のアルデピテクス・ラミダス、それ以後のアウストラロピテクスとホモ属各種を含む。これらについて第一次の形態学的研究に携わると同時に、マイクロCT装置を使用した先端的な形態解析研究を展開している。
2006年度の成果
国際共同研究の一環として、カダバ猿人、ラミダス猿人、アナメンシス猿人などの未発表もしくは中途発表標本に関する形態学的研究に従事した。これらの成果のうち、ラミダスからアナメンシス猿人への進化的移行を考察した論文をNature誌に発表した。また、ラミダス、カダバ、サヘラントロプスなど最初期の人類化石 (400万から 600万年前) の歯と顎骨の形態解析を進め、カダバ猿人 (570万年前) に関する報告論文を完成した。未発表のラミダス猿人標本については、従来から蓄積してきたマイクロCTデータを利用し、頭蓋骨の復元研究を各段に進展するなどの成果を得た。後者関連の研究は、さらに四肢体幹骨の形態解析をも進めており、アウストラロピテクス以前の人類祖先増の構築を着実に進めた。
ゲノム解析に基づくヒトと大型・小型類人猿の比較研究
石田貴文
セーチャン・ヴァンナラ (RA)、西澤大輔 (RA)、加島妙子 (RA)、二ノ方文 (院生)、松平一成 (院生)、関加奈子 (院生)
プロジェクトの目的
ヒトらしさを分子から解き明かすことを最終目的とする大枠のなかで、近縁の大型・小型類人猿の比較研究をおこなっている。「病は気から」を検証するため、チンパンジーの社会的・心理的ストレスと感染ウイルスの活性化の関係をあきらかにすること、ヒトと似た一夫一婦の社会構造をとると言われる小型類人猿テナガザルについて、その系統関係をゲノムから把握するとともに、その社会構造を維持する機構にせまることを目指した。
2006年度の成果
心理的ストレスと免疫については、2004年度からの継続課題である。オスチンパンジーの群という自然界では存在しないストレス下における、個体間の順位が形成される過程で、群内順位と潜伏ガンマヘルペスウイルスの活性化との関係を調べると、高順位の個体でウイルスの活性化、すなわち、免疫監視機構の弛緩が観察された。この現象は、高順位の個体では、その地位を保つためにストレスがかかっていることを示唆している。この現象が一般化できるものか、潜伏感染するパピローマウイルスを指標とした検索の条件設定をおこなっている。
小型類人猿の社会行動とゲノム解析に関しては、テナガザル4属のミトコンドリアDNA全配列の決定を進め、新たに2属について配列決定が完了し、より正確な系統関係を導き出す基盤を整備した。テナガザルの社会構造維持機構に関しては、”Mate Guarding” 仮説を検証するため、グルーミング行動を指標とした飼育テナガザルペアの観察をおこなった。その結果、ペア維持は提唱されているようなオスによる積極的なはたらきかけだけではないことを示し、ヒトの配偶システムを考える上で、良い比較対象を得ることが出来た。
研究資材の開発については、大型類人猿から、有袋類に至る各種哺乳類の細胞収集をおこない、これまで煩雑であった有袋類の細胞培養を簡便化することが出来、汎用性が高まった。
音楽の構造的聴取に関わる脳磁界活動の計測
長谷川寿一
大塚明香 (PD)
プロジェクトの目的
音楽は人間の知性と心の表象的産物であり、且つ、時空間構造を有する組織化された音響現象である。これらの特徴は、時間分解能に優れたMEGによる、人間の高次機能の研究に適した素材を提供する。本プロジェクトでは、音楽の要素である和音や和音進行列を刺激として提示した時の脳磁界活動を計測し、刺激音の音響特性、和音の階層性や調性の認知、また、神経細胞の順応特性や注意による変調等に関わる聴覚野の活動を複合的に検討した。
2006年度の成果
(1)調性システムに基く和音の階層性の認知と脳磁界活動の関係: Carol Krumhanslの提唱したprobe-tone methodという心理実験の手法を参考に、2オクターブの上昇長調/短調音階により調性的にプライミングされた長調和音/短調和音に対する聴覚性誘発脳磁界反応を計測した。コントロールとして、各和音を単独で連続提示した。音階と和音間に長・短調のシフトのない組合せにおける和音 (主和音) は安定して聞こえるが、シフトのある組合せの和音 (関係調和音) は不安定に聞こえると弁別された。脳磁界反応の解析の結果、和音が単独で提示された時と調性的にプライミングされた時では異なる処理が行われ、更に、楽音に対する右半球の優位性と、個々の和音に対する左半球の分析機能 (長調コンテクストにおける長調和音 (主和音) <短調和音 (関係調和音)) が示された。長・短調の移行 (modality shift) は注意を喚起する効果を持つ。聴覚反応は視床網様体の活動に関連して選択的注意により振幅が増幅する事が報告されている。本実験の結果は、聴覚反応の振幅は喚起される注意の度合いに応じて更に変化する事を示唆する。(投稿中)
(2)単一和音の連続聴取と和音進行列の聴取による脳磁界活動: 特定の音響特性を有する和音の単独繰返し提示と、音楽的な進行の一部としての提示という、異なる提示条件下において誘発された聴覚反応の振幅を比較した。聴覚反応の振幅は、前者では和音の音響特性に依存して変調を示したが、後者では一定だった。進行の一部として提示された場合の聴覚野の活動は、先行刺激音の記憶、聴覚野の神経細胞の順応効果、注意や課題に関わる内因性の要因等の様々な影響を受けて、刺激音の音響特性による効果をマスクする可能性がある。現在、左半球の活動についての解析を継続中である。
以上の成果は、国際学会2件、国内学会2件、招待講演3件、国内査読誌1件において報告した。
霊長類脳サンプルを用いた脳のプロテオーム解析
吉川泰弘
濱崎裕子(PD)
プロジェクトの目的
人類の脳は、進化の過程で、必然的機能を担うものとして形成されたものである。前頭連合野は、真猿となった段階から、急速に大きくなり、人類ではさらに画期的に大きくなっているが、このことは、真猿以降の高度な集団、社会に対応するため、前頭連合野が発達したとも考えられる。“脳”は、生命活動において、重要な役割を果たしているにもかかわらず、未だ解明されていないことが多く、その機能を理解するためには、分子レベルから組織レベルにいたるまで幅広い視点からの解析が必要である。そこで、本研究は、霊長類脳における発現たんぱく質の網羅的解析 (プロテオーム解析) を行うことにより、脳の機能を解明していくことを目的とする。
2006年度の成果
液体クロマトグラフィー・タンデム型質量分析 (LC-MS/MS) によるプロテオーム解析を行い、霊長類の脳内に発現しているたんぱく質のリストを作成した。カニクイザル脳の部位別発現たんぱく質の比較するため、3頭のカニクイザルを用いて、前頭葉、側頭用、頭頂葉および後頭葉の白質と灰白質、計8部位に対する脳の部位別発現たんぱく質のリストを作成した。さらに、霊長類の脳が進化によりどのように変化してきたのかを検討するために、カニクイザル、チンパンジー、オランウータンの脳組織を用いて、プロテオーム解析を行った。得られたたんぱく質のリストより、共通に発現しているたんぱく質や、部位特異的、あるいは、種特異的に発現が確認できたたんぱく質などを検索した。それぞれのたんぱく質の役割が明らかになれば、脳の機能の解明につながると考える。
サバン症候群における特異的認知機能の認知神経科学的研究
長谷川寿一
伊藤匡 (PD)
プロジェクトの目的
本研究はサバン症候群における特異な能力の神経基盤を解明することを目的として、脳波計 (EEG) を用いたカレンダー計算時のERP (事象関連電位) 実験を行う。本研究ではサバン症候群だけでなく、健常群の脳活動を計測し、両者を比較検討することで、計算方法 (を含めた認知機能) のより一般的な神経的基盤を解明することが期待される。
2006年度の成果
対象としているサバン症候群の患者がカレンダー計算能力を有しているため、そこに焦点をあてた。健常群として10名の大学生にカレンダー計算の訓練を行い、ほぼサバン症候群と同成績を収めるにいたった。カレンダー計算の訓練を行っていない被験者群5名と訓練群5名でのカレンダー計算時のEEG測定を行ったところ、ERP成分に違いが見られた.
心理言語科学部門
パーソナリティ特性に及ぼす遺伝と環境の相互作用の影響
繁桝算男
大江朋子(PD)
プロジェクトの目的
心理的な属性のそれぞれがどの程度遺伝によって規定されているか知るための、天の配剤というべき双生児法であるが、双生児法によって得られたデータから遺伝決定係数を見出す方法は確立されていない。既存の方法は、たくさんの遺伝子が加法的に心理特性に影響しているという仮説に基づいており、この仮説は余り信用できない。また、この推定値の分布はもちろん、標準誤差も知られていない。本プロジェクトは、より一般的な仮定の下に、遺伝決定係数の推定値と分布を求めることを目的とする。
2006年度の成果
双生児のデータについて、一卵性と二卵生の遺伝性の違いに着目して、遺伝に影響される部分と環境に影響される部分の因子分析モデルを別々に作り、それらを統合する構造方程式モデルを構成した。その際に遺伝子の作用として加法性を仮定せず、交互作用の混在を示すパラメータρをモデルに導入した。この一般化モデルと加法性を仮定したモデル、また、1次の交互作用を仮定したモデルの3つのモデルについて、2種類の実データについてモデル選択をした。モデル選択の基準はベイズ比とその近似としてのベイズ情報量基準 (BIC)、および、Chibsによる基準である。いずれに基準によっても提案した一般化モデルが最良のモデルであると判断された。
人間の語彙処理と統語処理についての多角的・複合的な実験的検討
伊藤たかね
広瀬友紀
小林由起 (PD)、植月美希 (PD)、金丸一郎 (院生)
プロジェクトの目的
音素・形態素・語・文の各レベルにおける言語処理に関わる心内・脳内メカニズムを探るために、反応時間測定、眼球運動測定、脳波測定などの手法を用いた諸実験を行う。特に、(1) 語の処理における記憶と演算との関係、(2) 句・文の処理における統語情報と非統語情報との関係、(3) 文の統語処理と作動記憶容量との関係、(4) 文処理・表象の時間的特性に焦点を当てて考察を行う。
2006年度の成果
(1) については (a) 名詞化についてのERPプライミング実験の結果の検討、(b) 他大学研究者を含めた共同研究で、単純他動詞と迷惑受け身文における格違反のERP反応計測実験の実施、の2点を中心に進めた。
(a) については,演算を伴うと考えられる -sa名詞とネットワーク的記憶で処理していると考えられる -mi名詞との処理の差を捉える目的で実施したが、-sa名詞、-mi名詞ともに反復プライミングと変わらないERPプライミングが観察された。(b) は、埋め込み構造を伴う迷惑受け身と、単純他動詞とで、統語的な違反と考えられる格違反についでどのような成分が観察されるかを検討する目的で実施した。その結果、単純他動詞、埋め込み構造を伴う迷惑受身ともに、N400、P600が観察されたが、P600の生起する時間帯が条件によって異なることが示された。これらの結果を得て、その理論的意義を現在検討中である。
(2) の統語的曖昧性を含む表現の処理における非言語的諸情報の役割に関する研究では、昨年度得られた音声データ (言語産出時に呈示される視覚情報を操作した各条件の発話データ) の分析を進めている途上にある。この成果により、統語構造の区別に寄与しうる韻律情報の現れ方は、発声者に与えられる視覚的情報のタイプにより、量的のみならず質的に異なることがより明確に示されると期待される。これと並行して、wh句の作用域に関わる曖昧性を用いた言語材料を作成し、それぞれの解釈がどのような韻律パタンを伴うか、またその個人差について調べるため発話収集を行った。この発話を材料とした知覚実験では、韻律の操作により、曖昧文の解釈が左右されたり、あるいは本来容認可能でない解釈が得られることが示唆された。
(3) の文処理と作動記憶容量との関連についての研究では、日本語の長距離かき混ぜ文に対する読解時間を検討した。かき混ぜ文の意味のもっともらしさを操作し、意味のもっともらしさがかき混ぜにどのように影響するかも合わせて検討した。その結果、かき混ぜ文においては基本語順文よりももっともらしさの効果が弱くなった。この傾向は、作動記憶容量が小さい被験者の方が大きい被験者よりも強く見られた。すなわち、統語処理の負荷が意味の処理に影響している可能性を示唆している。
(4) の文処理・表象の時間的特性に関する研究では、中央埋め込み文の各文節を1,000msや3,000msといった長い提示時間で提示すると文理解が低下することが示され、このような複雑な文では非中央埋め込み文と比べ、文表象の保持時間が短いことが示唆された。
認知言語学の観点からの言語の多様性についての統合的理論の構築
大堀壽夫、西村義樹
プロジェクトの目的
言語の普遍性と多様性について、その概念的基盤やコミュニケーション上の機能という観点から考察する。特に、言語理論における基本カテゴリーとして、どのような概念が汎用的な有効性をもつかに焦点をあて、統合的理論を求めてさらに研究を進める。
2006年度の成果
本年度は、文法理論と意味理論の両面において、以下の研究を行った。
(a) メトニミー現象の探究。成蹊大学の研究グループとの交流を進め、その成果は昨年度の『レトリック連環』に続き、研究論集として出版予定である。この研究書には、本プロジェクトのRAをつとめた山泉実の論文も掲載される。
(b) 言語類型論の観点からの文法研究。ユリア・コロスコワと大堀の共著論文をアムステルダムの国際学会で発表した。Studies in Languageに投稿し、現在審査中である。古賀裕章と大堀の論文をライプツィヒの国際学会で発表した。John Benjamins社から刊行予定の研究論集に採択が決定している。また、L. Whaleyの『言語類型論入門』の翻訳を大堀、古賀、山泉の共訳で刊行した。
(c) 人間関係のメタファーの研究。新たな通文化的研究のための布石として、日本語と英語を対象として分析を行った。日本認知言語学会で発表し、2007年度はそれを発展させたものをクラコフの国際学会で発表予定である。
加えて、5月には認知言語学のアウトリーチ活動の一環として、本COE立ち上げ時から続けている「認知言語学の学び方3」を開催した。多くの参加者があり、本COEの認知度を高めることができた。9月には国際構文理論学会のサテライト・ワークショップとして「Workshop on Typological Perspectives on Constructions」を開催した。日本語、タガログ語、ジノ語、インド諸語について発表がなされ、少人数で突っ込んだ討論が行われた。
ノンバーバルな視覚コミュニケーション
佐藤隆夫
プロジェクトの目的
視線、指さしは、視覚的な情報による非言語的なコミュニケーションの中でも、最も直接的なコミュニケーション手段である。しかし、視線に関しては社会心理学的な研究において、視線、特にアイコンタクトの重要性が議論されているが、視線知覚の精度を細かく検討した例はほとんど無い。また、指さしに関しては実験的な研究がほとんど存在しないと言っても過言ではない状況である。そこで、視線知覚の精度、および指さしそのものの精度、指さしの知覚の精度、および、精度に影響を与える様々な要因について実験心理学的な検討を加えることが本研究の目的である。
2006年度の成果
一昨年度までに、コンピュータ画面上に提示した実物大カラー画像を用いた基礎データ、また、多くの被験者、とりわけ幼児や様々な障害を持つ被験者を対象とした研究実施を想定し、紙に印刷した刺激やプロジェクターで大型スクリーンに提示した刺激を用いた予備実験を実施し、コンピュータ画面とほぼ同じ傾向の結果を見いだすことに成功している。こうした結果を受け、今年度は集団実験を実施し、被験者のパーソナリティー特性と視線知覚特性の間に、部分的ながら相関関係を見いだすことができた。また、指さしコミュニケーションに関しては、視線と指さしの相互作用に関する検討を進め、指さしの知覚が、視線に引きずられ、指さしと視線が一致しているときには指さし知覚の精度が高まることを見いだすことに成功している。今年度も引き続き、指さしと視線の相互作用の検討を進めて行きたい。
眼球運動と視認成績との連関
村上郁也
久保寺俊朗 (PD)
プロジェクトの目的
現代社会では、電光掲示板に流れる文字列を歩行中に識別するというように、視対象と観察者の双方が運動している状況で視覚認識をしなければならない事態がますます増加している。このような読字成績に深く関わるとされる眼球運動について、視覚課題遂行中の眼球運動を実測し、種類別にデータを分別する。それらの生起がいかに視認成績に影響を及ぼすかを、相関解析にて解明する。結果をもとに、人間の視覚情報処理系において眼球運動由来の網膜像の動きがどのように処理され、安定視野内で注意して文字を追いかけるなどの機能が実現しているのかをモデル化する。
2006年度の成果
眼球運動に伴い、静止物体の投影像は網膜上で動き、像がぼけているにもかかわらず、あまりぼけは感じられない。また固視しているときでも、ぼけた画像を動かして提示すると、静止時と比較して鮮明な印象を受ける。この現象は運動による鮮明化と呼ばれ、刻々と変化する網膜像からさまざまな対象を認識する上で重要な役割を果たすと考えられる。そこで今年度は、動画像の速度が知覚される画質印象に及ぼす影響を心理物理学的に測定した。実際に画像に含まれるぼけの量を調節し、被験者がさまざまな速度で同じような印象を受けるために必要となるぼけの量を測定した。その結果、必要となるぼけの量は、速度の増加とともに増大した。さらに、さまざまな速度条件下で、画質弁別能力を規定する要因は画像に含まれる物理的なぼけ量ではなく、被験者の知覚的なぼけ量であることを見出した。これらの結果から、動画の鮮やかさに関する課題成績は、運動による鮮明化の補正後の神経表象に基づいて行われていると考えられる。
統合言語科学部門
空間移動の言語化に関する対照研究
ラマール・クリスティーン、大堀壽夫、楊凱栄
プロジェクトの目的
空間移動の表現法の認知科学的・類型論的研究を進める。とりわけ、このテーマについて研究が比較的に浅いと言えるアジアの言語のデータの収集・整理・分析を通じて、現行の仮説の検証をしながら、新たなパラメータも提示する。検討には、単文レベルの文構造の側面から (ラマール) と、談話内での構文の機能という視点から (大堀) と二つのアプローチを導入する。大学院生の人材が十分である語種に関して (中国語・日本語など) データベースの公開を目指す。
2006年度の成果
2006年度は、中国語・日本語・フランス語・ドイツ語・ロシア語に関する対照研究を行った。
東京大学駒場キャンパスで開催された日本言語学会第132回大会で、本プロジェクト主催のワークショップ「空間移動表現の類型論的研究 — 直示移動表現を中心に」を行った(企画者:守田貴弘; 司会:C. ラマール)。ワークショップはラマールによるプロジェクトの総合的な目的と方法に続き、以下の3つの個別発表で構成された。「日仏語の直示表現と類型内の多様性」(守田貴弘)、「中国語の移動表現に見られる選好パターン―日本語と比較して」(相原まり子、C. ラマール)、「英語、ドイツ語、ロシア語における空間移動表現―日本語との対比において」(古賀裕章、青木葉子、コロスコワ・ユリア、水野真紀子)。また、9月21日に、Leonard Talmy 氏の来日をきっかけに、RAの古賀裕章さんとコロスコワさんが神戸大学の松本曜教授主催の研究会で「Spatial motion expressions in English, German and Russian」というタイトルの発表を行った。かくて、今年も大学院生の活躍が顕著で、神戸大学の研究グループと引き続き有益な交流を推進した。
ラマールはこのプロジェクトの研究成果を9月1日~3日、東京大学の駒場キャンパスで開催された国際学会「第4回国際構文理論学会 (ICCG4)」で発表した (Chinese Path Resultatives: a variationist approach)。
本プロジェクトにおける研究成果の一部をまとめる研究報告書『空間移動の言語表現の類型論的研究 第1冊 東アジア・東南アジアの視点から』が年度末に刊行された (C. ラマール・大堀壽夫編 、英文タイトルは Typological Studies of the Linguistic Expression of Motion Events Volume I: Perspectives from East and Southeast Asia、Edited by Christine Lamarre and Toshio Ohori)
Plurality and wh-interpretaion
タンクレディ、クリストファー
戸次大介(PD)
プロジェクトの目的
本研究の目的は、自然言語の意味論において、複数性 (pluralty) をどのように表示し、操作すべきかを明らかにすることである。とりわけ複数形表現と、”respectively”、”altogether” 等の副詞およびWh疑問文との相互作用を観察することにより、言語における複数性にはどのような種類があるか、また種類の異なる複数性がどのような理論的性質を持っているかを研究する。
2006年度の成果
(1) dynamismとの両立は、plurality分析の難しさの一つであるが、型付き動的論理 (TDL) はそれらの統合的記述を目指している。しかし、そのような記述力と実テキストに対する被覆率との両立は、更なる課題である。本年度の研究では、TDLの被覆率を示すべく、robust HPSG parserの出力をTDLの表示に変換する手法を実装し、Penn Treebank中の実テキストに対し、90%程度の高い被覆率を達成することに成功した。
(2) pluralityを示す表現からは分散読み、集合読み、累積読み等、様々な論理的解釈が生じるが、それらの関係はブール代数的アプローチで分析されるのが通例である。しかし、本年度の研究では、昨年度に引き続き、”respectively”、”respective”等を含む文における並列読みを考慮するならば、既存の分析では捉えられない問題が生じることを示してきた。代替分析として、pluralityを示す意味表示として、直積を用いた表示を用意する必要があること、そして直積による表示の使用条件に、要素間順序が拘わっていることを示唆した。
(3) 複数個のWh句を含むWh疑問文は、Wh句が全て単数形のときにも「リスト読み (list readings)」を持っているが、Wh句が複数形のときには、更に多くの可能な解釈が存在することが知られている。現在の形式意味論では、複数形表現をカバー (covers) として解釈する分析が標準的である。しかし本年度の研究において、複数個の複数形Wh句を含むWh疑問文は、そのような分析とは相容れないことを示し、現在の標準的分析に対する問題を提起した。
受身述語と節環境
坪井栄治郎
プロジェクトの目的
従来受身は主に能動文との対比でその意味・機能を論じることが多く、特定の文連鎖の中でのトピック/主語の保持といった、それを一部として含むより大きな談話単位の要請との折り合いといった、談話研究的な観点から研究されることが一般的であった。本研究は、現代日本語の受身文を取り上げて、受身述語の意味・機能が、それが埋め込まれている節環境と本質的な形で相互作用しているという仮説の下に、どのような要因がどのような形で受身の意味・機能と関係するのかを明らかにしようとするものであり、 その過程で日本語の類型論的な特徴との関係についても検討することを目的とした。
2006年度の成果
「テ接続」等の節の接続形式も含めて受身形態素に後接する形式と、文の視点配置を分析の際の着眼点とし、それぞれの観点に関連する先行研究のsurveyを行いながら関連するデータを集めて分析を進めた。Haspelmathらの言う “non-finite language” としての特徴と、従来様々な形で言及されてきた日本語の「主観性」の高さが日本語の受身の様々な特徴と関係するという見通しを改めて得た。特に後者については人称階層とも連動する形で分析を一層進める必要性が感じられたので、inverse等の関連構文にも範囲を広げ、日本語の「てくる/てやる」構文についての最近の研究のsurveyを加えた結果、受益や被害といった受身関連構文にしばしば見られる意味について再考することになったが、これについては予備的な調査しかできず、今後の課題となった。
コンパクション駆動意味合成理論の妥当性に関する研究
矢田部修一
プロジェクトの目的
当プロジェクトは、自然言語における意味計算のあり方を明らかにすることを最終目標とするもので、特に、コンパクション駆動意味合成理論という、統語構造ではなく韻律構造に基づいて意味合成を行う理論の妥当性を検証することを中心的な目的とするものであるが、今年度は、以下の3点を重点的な目標とした。まず、第一に、コンパクション駆動意味合成理論を検証する際の重要な検討領域となる、日本語における長距離かき混ぜの統語的性質に関して、主辞駆動句構造文法 (HPSG) の枠組みの内部での、「線状化に基づく」理論の妥当性を検証すること。長距離かき混ぜに関しては、移動に基づく分析が広く受け入れられているが、そのタイプの理論は誤りであることを、日本語母語話者を対象とするアンケート調査などを利用して示す。第二に、やはり日本語母語話者を対象とするアンケート調査などを利用して、日本語において左節点繰り上げが量化子の解釈に与える影響を確認し、左節点繰り上げに関する「線状化に基づく」分析の妥当性を検証すること。左節点繰り上げは、長距離かき混ぜと並んで、コンパクション駆動意味合成理論の妥当性を検証する際には言及せざるを得ない現象である。第三に、統語的構成素を成さない文字列が焦点として解釈される場合があるはずだというコンパクション駆動意味合成理論の予測が正しいかどうかを検証すること。この検証は、アンケート調査および音声実験を通じて行なわれるべきものである。
2006年度の成果
本年度は、日本語の基本的な統語構造を明らかにするためのアンケート調査、特に、日本語の長距離かき混ぜの統語的性質を明らかにするための調査、および、左節点繰上げの統語的性質を明らかにするための調査を多数行なった。また、同時に、意味解釈に関するアンケート調査、特に、統語的構成素でない文字列が焦点として解釈されうるかどうかを決定するための調査、および、左節点繰上げが量化子の解釈に及ぼす影響を明らかにするための調査を行なった。統語的構成素を成さない焦点に関する研究の成果は日本言語学会にて発表した。また、長距離かきまぜに関する調査からは、私自身が主張してきた、「線状化に基づく理論」を支持する結果を得て、論文をまとめた。その論文はK. P. MohananのFestschriftの一部として出版される予定である。
日本語と朝鮮語の対照研究
生越直樹
岩井智彦 (PD)
プロジェクトの目的
類似点が多いとされる日本語と朝鮮語を対照し、両言語の異同を明らかにすることにより、言語の普遍性と個別性について考えてみたい。両言語の対照研究は少なく、今後その研究の進展が期待されている分野だと考える。扱うテーマは文法、特にモダリティに関する諸形態 (生越)、日本の手話と韓国の手話の異同、特に非手指動作の分析 (岩井) を行う。
2006年度の成果
まず、2005年度末にこれまでの研究成果の一端をまとめた報告書『日本語と朝鮮語の対照研究』を刊行した。その後、報告書に掲載された論文が発表や論文に引用されている。2006年度には前年度に引き続き、第6回と第7回の日韓対照研究会を開催した。12月に韓国ソウル大の李賢熙先生に「韓国文字論の理解:通時的観点から」、3月に京都教育大学の森山卓郎先生に「引き延ばし音調について ?日韓対照研究にむけて?」という講演をそれぞれしていただいた。それぞれ、韓国語の特徴と日韓対照研究の新しい視点を示す内容であった。研究会では3名の大学院生・研究生が自らの研究について発表した。
手話に関しては、ソウルで現地調査を行い、韓国手話の資料を収集するとともに、韓国手話に対応する日本手話と対比しながら、非手指動作について両者の異同を分析した。これまでの分析では、非手指動作において日韓で共通性が見られることが明らかになった。
音韻論における理論的および実験的研究の進展
田中伸一
西村義樹
プロジェクトの目的
本研究では、海外における音韻理論に関する最先端の研究情報収集を行いつつ、日本における音韻理論の発展と発信のための一大拠点を、わが東京大学総合文化研究科の言語情報科学専攻に形成することを最大の目的とするものであった。すなわち、音韻理論研究のための継続的な人的ネットワークの拠点を目指し、それにより世界に発信できる独創的な音韻理論研究を行うための基盤づくりを行った。プロジェクト名は「音韻理論」を研究対象のテーマとしているが、音韻論・音韻史・最適性理論・認知音韻論・実験音韻論・調音音声学・音響音声学・聴覚音声学・認知科学など、広く「音」に関わる領域を巻き込んで、音声科学一般の理論的基盤になり得るような音韻理論の拠点形成を目指した。
2006年度の成果
今年度も東大を拠点として「東京音韻論研究会」を月1回の頻度で開催し、日本人研究者や海外の研究者を招聘したり、あちらに派遣することを通じて、各地域の研究者を繋げてネットワークを作ることを遂行した。参加者には東京大学を始め、国内外から常時15~20名前後のメンバーが揃った。また、本専攻の大学院生も積極的に研究発表を行い、情報発信を行った。また,「東京音韻論研究会」の開催のほかに、海外を中心とする音韻理論に関する勉強会 (輪読会) を若い研究者対象に週1回開催し、学内の大学院生用に教育的配慮に満ちたオリジナル研究発表会も、週1回開催した。それにより、言語情報科学専攻を拠点として、広く関東を中心に音韻理論教育の機会を与え、この分野の底辺の拡大と底上げを行った。このような月1回の「東京音韻論研究会」開催、週1回の勉強会 (輪読会)、週1回の学内研究発表会の開催を、継続的な研究・教育拠点の大きな柱としたほか、「東京音韻論研究会」のホームページを日英語版で前年度より引き続き更新し、広報に努めた。
談話と文法:成人の言語使用と子どもの文法・談話能力の獲得
藤井聖子
ラマール・クリスティン
作田千絵 (RA)、幸松英恵 (RA)、車田千種 (RA)、パルティナ・エレナ (院生)、内田諭 (院生)、石田邦子 (院生)
プロジェクトの目的
(1) 「談話と文法」理論の観点から、日本語と英語の話しことば談話における言語使用を、文法構文の意味機能・その文法化・「語用標識化」に着目して分析することを、第一の目的とする。
(2) 成人の言語使用の分析と同様の観点・理論背景・分析手法・焦点において、子供の文法能力・談話能力の発達・獲得を、両者の相互作用の所在を希求しつつ分析することを、第二の目的とする。
2006年度の成果
2005年度までの2年半で成人の談話 (会話、語り) データ収集・電子化資料構築と分析を主に行ってきたが、2006年度は、子供の「語り」談話データに加え、子供と家族との日常会話の縦断的談話データの収集も本格的に進めた。「談話と文法」理論の観点から、「語り」の談話構造とその文法、談話におけるモダリティ表現、Intonation Unitsと統語構造との関連性、Intonation Unitsの機能構造、選好的項構造、談話における連接・接続、等を分析した。平行して、子供の文法能力・談話能力の獲得に関して、5、7、9才児の語り談話データに基づき、子供の語りにおける談話構造の芽生え・発達とその表現手段としての文法の発達を分析した (Kurumada & Fujii 2006a, 2006b; Kurumada 2006)。これらの研究成果は、2006年度の日本言語学会 (作田・藤井)、言語処理学会 (内田・藤井)、言語科学会JSLS (Kurumada & Fujii)、 日本語文法学会 (幸松)、本COEの企画として本学で開催した国際学会the 4th International Conference on Construction Grammar (Sakuta & Fujii; Kurumada & Fujii,) などで発表し、これらのProceedings・予稿集の掲載論文に加え、Benjamins出版のPragmatics & Beyond, volume 151 (Fujii 2006) や Pragmatics and Language Learning, volume 11 (Houck & Fujii 2006) などレフリー付の著書・雑誌で出版した。
中国語の全称詞(UniversalQuantifiers)構文に関する認知言語学的研究
楊凱栄
プロジェクトの目的
中国語における全称詞(Universal Quantifiers)構文は複数の方法で表すことが可能である。 これらの構文は集合メンバーすべてが述語と何らかの関係を持つという点においては同じであるが、 その関わり方はそれぞれ異なる。この研究プロジェクトではメンバーの集合が述語と関係を持つときに、われわれ人間の集合に対する認知の仕方の違いがそれぞれの構文に反映されているものと想定し、スキャニングという観点から、構文間の表現機能がどのように異なるかを明らかにしていきたい。また日本語の全称詞構文との対照研究も視野に入れて研究を行う予定である。
2006年度の成果
本プロジェクトは認知言語学的な観点から次のような全称詞構文(“個個+ (都) +VP”、“一個個+ (都) +VP”、“一個一個+ (都) +VP”)の違いを明らかにし、その成果を「助数詞重ね型構文の認知言語学的考察」と題する論文にまとめ、『中国語学』(253号 日本中国語学会) に発表した。そして、これをさらに発展させた形で、第十四次現代漢語語法学術フォーラム (上海財経大学2006.10.21) で「“個個”、“一個個”、“一個一個”的語義功能及認知上的差異」と題する口頭発表を行った。本プロジェクトはまた日本語の全称詞構文 (「誰もが+VP」、「誰でも+VP」) との比較も試みた。その初歩的な成果として、第八届国際漢日対比語言フォーラム (北京外国語大学 2006.8.19) で、「「誰でも+VP」和「誰もが+VP」句式的不同語義功能??兼談漢語相応的句式??」と題する口頭発表を行い、また台湾成功大学 (2006.9.22) においては、「有関日語的「誰でも+VP」和「誰もが+VP」」と題する招待講演を行った。来年度はこれを踏まえたうえで、日中対照の部分を論文にまとめる予定である。
計算言語科学部門
ドイツ語における構文認知の方法
幸田薫
中澤恒子、稲葉治朗 (共同研究者)
プロジェクトの目的
生成文法、語彙意味論、言語情報処理など、さまざまなアプローチの仕方をぶつけ合い議論することによって、ドイツ語の統語論・統語意味論における基本的な問題点の解決の方途を探り、ひいては、ドイツ語の文構造の生成と理解に潜んでいる認知的機構を探る。
2006年度の成果
ドイツ連邦共和国フランクフルト大学認知言語学科長のGuenther Grewendorf教授を招き3つの講演会を開催した。また、1つはGrewendorf教授を交えて2つの研究発表会を開催した。いずれの催しも休日と学期休暇中に行なわれたが、学内外から10数名から30名の参加者があり、熱心な討論が行なわれた。複数の研究発表で共通に明らかにされた主な点は、交差構文や時制・話法の一致に補文標識の基底における異なった生成位置が関係していること、「所有」を表す動詞に対して所有と所持の区別や譲渡可能と譲渡不可能の区別を行うことが所有構文の統語的・意味的な説明に不可欠であることなどである。年度末には、講演と研究発表の内容をまとめた「研究成果報告書」を刊行した。
動詞語彙概念構造レキシコンの構築
加藤恒昭
伊藤たかね
プロジェクトの目的
動詞の意味記述である語彙概念構造 (LCS) の数千語規模の計算機処理可能なレキシコンを構築する。構築されたレキシコンは、一般公開し、言語学、自然言語処理技術のインフラ (言語資源) として普及を図る。また、構築の過程で以下を行っていく。
・LCSの (数千語レベルで矛盾を起こさない) 形式的な仕様の確立
・その範囲で説明可能な事象とそうでない事象の分類
・動詞の様々な振る舞いに関する (LCSを通じた) 体系化、特徴付け
・上記体系の中に個々の動詞を分類するためのテスト手法の確立
2006年度の成果
一昨年度実施したLCS辞書構築のためのアンケートにおいて、典型的 (類型的) な結果を得られなかった動詞について、有限性 (telicity) に関する再調査を複数のテストを用いて行い、それらの動詞の特徴とテストの問題点を考察した。これらの考察に基づいて、適用範囲のより広いLCS体系を提案していく予定である。また、和語動詞を中心とした基本語彙約1000語に関するアンケートについては、その結果を整理し、その分析を通じて付与された人手によるLCSと合わせて、http://taurus.c.u-tokyo.ac.jp/lcs/index.htmlで公開した。
移動事象における経路表現の普遍性
中澤恒子
プロジェクトの目的
移動事象の構成要素には、移動そのものに加え、移動の主体、経路、様態などがあるが、Talmy (1985, 2000) は、言語によって、それぞれの要素がどのような言語表現によって表されるかという傾向にパタンがあるとしている。例えば、英語は様態移動動詞言語で、移動動詞の多くが移動の様態を表し、経路は動詞以外の副詞句や前置詞句によって表されるとしている。本研究では、同一文中で移動動詞と共に使われる副詞句や前置詞句の意味内容に、Talmyの予測するように諸言語においてパタンがあり、特定の移動事象の構成要素を表す傾向があるかどうかを検証することを目的とする。
2006年度の成果
本研究では、移動動詞のうちでも「来る」「行く」のような直示的移動動詞に着目し、日本語、英語、独語、中国語、朝鮮語、錫伯語において直示的移動動詞と共起する副詞句や前置詞句の意味内容を比較した (Talmyの分類では、英語、独語は様態移動動詞言語、日本語、朝鮮語は経路移動動詞言語)。それぞれの言語の母語話者を対象とした調査の結果では、中国語以外では「来る」に相当する動詞は移動の着点を表す表現と共起するが、移動の方向を表す表現とは共起できず、「行く」はどちらの表現とも共起すること、また中国語では「来る」「行く」の区別なく着点あるいは方向を表す表現と共起することがわかった。また、Longgu語、Zapotec語、Mparntwe Arrernte語、Diuxi Mixtec語の文献調査の結果でも、最初の二言語は上記の英語などと同じパタン、残りは中国語と同じパタンを持つ。このことはTalmyの言語分類とは関わりなく、特定の移動動詞 (この場合は直示的移動動詞) においては、共起する副詞句や前置詞句の意味内容に普遍性があることを示している。
言語データに内在する単語の切れ目と分岐エントロピーの関係に関する研究
田中久美子
革斤志輝 (RA)
プロジェクトの目的
去年度は、言語の「分節点」に普遍的に見られる統計的性質に関する研究を行い、ある程度のまとまった知見が得られた。今年度も、引き続き言語データに内在する統計的性質に光を当てていく。今年度は特に、心理実験で得られた単語の親密度と、言語データ中に存在する頻度との関係を調べる。事前準備から、単語の情報理論上の情報量 (単語頻度のログ) が単語親密度と相関するとの仮説が得られている。そこで、大規模データ上でこの仮説を検証する。この検証には、単語頻度のログを計測する必要があるため、莫大な量の言語データが必要となる。このため、情報理工学系研究科がインターネットから集めた約6テラバイトの言語データから統計を取ることができるように、クラスタマシン上でこのデータを整備した上で仮説を検証する。
2006年度の成果
分岐エントロピーについては、英語、中国語のデータそれぞれ100Mバイト程度を用いて網羅的に研究を行い、(1)英語では、Zellig S. Harrisの結論が、確かに成り立つこと、(2)中国語では、Harrisの結論は必ずしも妥当ではなく、文字表記の差異におそらく原因があると思われる差異が観察されることの2点について知見が得られた。特に、後者については、英語は音素列から直接単語が分節されるのに対し、中国語では音素列からまず形態素が分節され、形態素列から単語が分節されている可能性があることが示された。本成果に関係する論文などは、
Jin Zhihui and Kumiko Tanaka-Ishii. Unsupervised segmentation of Chinese text by use of branching entropy. In International Conference on Computational Linguistics and Annual Meeting of the Association for Computational Linguistics, pages 428–435, 2006.
Kumiko Tanaka-Ishii and Jin Zhihui. From phoneme to morpheme: Another verification using a corpus. In International Conference on the Computer Processing of Oriental Languages, pages 234–244, 2006.
田中久美子 & 革斤志輝 音素から形態素へ —Harrisの仮説の英語、中国語コーパスを用いた検証— 言語処理学会大会, 2007.
また、前者2つについては、現在英文ジャーナル論文を投稿中。
認知発達臨床科学部門
NIRSおよびEEGを用いた乳幼児の脳活動計測-比較発達認知神経科学アプローチ-
開一夫
松田剛 (PD ~9月)、旦直子 (PD)、宮崎美知子 (PD ~6月)、福島宏器 (院生)
プロジェクトの目的
本プロジェクトでは,心や言語機能の基盤と考えられる社会的コミュニケーションの神経メカニズムを発達的な視点から明らかにする.本年度は昨年度に引き続き,乳児の脳活動を非侵襲的に計測可能な近赤外分光法(NIRS)および脳波(EEG)/事象関連電位(ERP)計測の2つの手法を用い検討した.具体的には,自他弁別,自己認知,他者知覚,模倣,母子間相互作用などに焦点をあてた脳活動計測を中心に研究を行った.
2006年度の成果
本研究では、社会的認知の発達プロセスにおける諸機能を解明するため、近赤外分光法や高密度脳波計を用いた脳活動計測を乳幼児・成人を対象に実施した。具体的には、(1) 社会的相互作用 (コミュニケーションの発達)、(2) 自他弁別・自己認知、など「心とことば」の基盤形成に関わる基礎的認知活動と、社会的に重要視されている (3) TV・TVゲームといったメディアへ暴露経験と認知発達への影響について,脳機能の発達と関連付けて考察した。(1) に関しては、現在複数の国際会議で発表および英文ジャーナルに投稿中、(2) に関しては、Child Development誌およびSCAN誌に掲載済、(3) に関しては、レビューを日本語雑誌に掲載、実験論文は投稿準備中である。
精神病理の発生メカニズムと治療的介入についての認知行動アプローチ
丹野義彦
森脇愛子(PD)
プロジェクトの目的
進化心理学の立場から精神病理の発生や予防を考える。精神病理は人間のネガティブな部分であるが、人間の進化の過程で生き残ってきた点を考えると、進化的な意義があると考えられる。そこで、抑うつ・不安障害・統合失調症型人格障害(妄想的観念、自我障害)など臨床場面や日常場面でよくみられる精神病理について、進化の観点から、臨床研究や非臨床アナログ研究をおこなう。アセスメント (半構造化面接法、質問紙法) の開発や翻訳、青年層における発生頻度と記述の研究、発生メカニズムの検討 (調査データの共分散構造分析を用いた解析や実験的検討)、発生の予測 (脆弱性ストレスモデルにもとづく発生の予測の研究)、発生の予防 (認知行動療法を応用した介入と相談) をおこなう。
2006年度の成果
進化心理学の立場から精神病理の発生や予防を考えた。大学生を対象としてネガティブな感情や思考のメリットについて質問紙法を用いて調査した。また、進化の観点にたてば、精神病理に対する認知の仕方を変えて、精神病理をうまくコントロールしながら共存していくという認知行動療法が望ましいと考えられる。そこで、認知行動療法の基礎的なメカニズムを実証的に研究した。以上の成果は、著書 (分担執筆を含む) 8点、国際誌 (Psychological Reports) および国内誌 (心理学研究、パーソナリティ研究、精神医学、理論心理学研究) への掲載論文9点、総説1点にまとめられ た。さらに、駒場キャンパスにおいて日本認知療法学会を開催し (参加者は1025名)、本COEとの共催で、ロンドン大学精神医学研究所のクラークとエーラーズによる招待講演とワークショップをおこなった。この講演は好評で大きな反響を得たため、その記録が星和書店から出版されることになった。